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前回は、わたくしガイコツが8歳から16歳までを過ごした、北関東某県にある某児童養護施設の概要とそこでの生活について書きました。 www.gaikotsublog.com
今回は、園で蔓延していたイジメについて、それと、記憶に残っている出来事について書いていきたいと思います。
施設でのイジメ
人間というのは複数人集まると必ずセクトができたりセクト同士の諍いが起こったりします。
これは、子ども社会も大人社会も、学校でも会社でもなんでも全て同じです。
みなさんも散々見てきたと思います。
人間という生き物の本質の一つなんでしょうね。
ただし、人生経験や様々な知見が浅い分、子どものほうがより残酷です。
やることがえげつないんです。
園では、イジメられて育った奴らが成長して園内ヒエラルキーの上部にスライドしていくと、そいつらがまた下の子たちをいじめる負のループ構造ができあがっていました。
「弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」わけです。
毎日、ブルースが肩に手を回してくるような生活でした。
物理系イジメ
わたしがやられたイジメを憶えている限りあげて思い出してみると、殴られるなどの物理ダメージがあるイジメとしては、野球の硬球をぶつけられるのが辛かったですね。
殴る蹴るにはまあある程度耐性はあったんですが、この硬球ぶつけはきついです。
どういうものかというと、夜、消灯して電気が消えた後、突然思い切り投げてくるんですよ。
みなさんは野球の硬球を触ったことありますか?あれ、めちゃくちゃ固いんですよ。
ぶつけられたら大アザ。当たりどころが悪かったら大怪我すると思います。
真っ暗な中でいつ投げてくるか誰に投げてくるかわからないのが恐怖でした。
硬球ぶつけを好んでやっていたのはKというゴミ野郎でしたが、こいつはわたしの7歳くらい年上でほんとにろくでもないやつでした。
ある時はある子どもの目の辺りにモロにぶつけてしまいものすごい大アザになってしまいましたが、ロッカーにぶつけたと言っておけと命令されましたね。
死ぬまでに、一度でいいので、このKの顔面に硬球ぶつけてやりたいです。
どこに住んでるんだろ。
精神系イジメ
精神を削ってくるイジメのほうがどちらかというと嫌でしたねー。
わたしがやられたのは、思い出せるのは以下ですね。
- 腐ったジュースを飲まされる
これはですね、いじめる相手に飲ませるためにわざわざ腐ったジュースを製造するんですよ。
ジュースを飲むには身銭を切らなければいけないので、わざと腐らせるなんてもったいないことをするには相当の情熱がないとできません。
相当楽しかったんでしょうねやってるやつは。
ちなみに、腐ったジュースは不味いです(当たり前)。
ある時、これを飲まされている児童数人で、意を決して一人の保母さんに事実を打ち明け、なんとか腐ったジュースを処分して欲しい、自分たちが飲まされている話はしないでほしいと懇願すると、願いを聞き入れてくれてジュースを処分してくれました(捨てられた本人は激怒して、「腐ったジュースのリポート書いてるのになんで捨てたんだ」と大騒ぎしましたが)。
当時は、先生ありがとうー、などと思っていましたが、本当ならこういう奴こそボコボコにするべきだよな、指導員は。
17,18歳くらいの園内ヒエラルキー最上位の児童には、職員たちもビビって何も言えないんですよねー。
ガキの一人や二人に大の大人がなんでビビってんだよ…。
- 園の本を売りに行かされる
古本屋に、園にある蔵書をかなりの数売りに行かされました。
案の定バレて指導員にボコボコにされましたが、おれは命令されてやっただけだから。
事実の裏とりもしないで、よく小学生をボコボコとぶん殴れるよなあ。
今でも信じられない低モラルの職員たちでした。
でも、命令したやつの名前は、ビビって話せませんでした。
そのあとどういう目に合わされるか想像すると恐ろしくて。
指導員にボコられたほうがまだマシという子どもながらの比較衡量でした。
- 洗顔フォームで歯を磨かされる
これが地味につらい。
ビオレか何かで歯を磨かされるんですが、めちゃめちゃ気持ち悪くなって吐きまくります。
いくら口をゆすいでも匂いとか消えないし。
- 無視、仲間はずれ系
この辺は、学校なんかで同級生にされたりすると結構きついですが、園では大してダメージはなかったです。
それより恐ろしいイジメは山ほどあったので。
わたしがされたことのないイジメで他の子たちがよくされてたのは
- カツアゲ
ですね。
児童たちには月に1度ほど親との面会が許されていて、結構お小遣いがもらえる子も、中にはいました。
そういう子が狙われます。
とは言え、お金は園の預かりになって自由には使えないので、悪知恵を働かせる必要がありました。
よく使われた手口では、自分の欲しいものを買わせて貢がせるというものがありましたね。
わたくしガイコツには面会は12歳くらいまでしか来ませんでしたし、来ても特にお小遣いを貰えたりというのはなかったのでこの被害には合いませんでした。
恩寵園事件
施設のイジメは毎日毎日そりゃあほんとうにひどいもんでしたが、わたしがいた施設は、もしかしたら相対的にはまだそんなにひどい方ではない、まだまだ幸せな部類に入っていたのかもしれないなぁと、のちに思うようになりました。
それは、この恩寵園事件を知ったからです。
これはわたしがもう施設を出所して社会人になってから起こった事件ですが、凄絶です。
恩寵園事件(おんちょうえんじけん)とは千葉県船橋市の児童養護施設『恩寵園』での施設内虐待事件。身体的虐待、性的虐待など様々な拷問的苦痛を児童に与えた事件である。
概略
この事件は深層では長い間続いていた可能性があるが、表面化したのは1995年8月に児童相談所に対し匿名の告発があったことである。その後、調査を行った結果深刻な児童虐待が確認された。しかし園長らはこの事件の責任逃れを決め込んだため、反対する関係者らは辞表を提出、辞職した。子供達は集団脱走し、弁護士らは人権救済を訴える。
虐待は金属バットや木刀で殴る、乾燥機に入れる、足を包丁で切る、男児の性器を切りつける、強姦など非道の限りを尽くしたものであった。1997年5月には、衆議院本会議で恩寵園の虐待問題が取り上げられるという異常事態となる。1999年には日本テレビが元児童らの証言を全国放送し、世論に押されて千葉県警や厚生省が動くことになる。
関係者らは傷害・強制猥褻・強姦などの罪で1999年から2000年にかけ逮捕された。園長は傷害で懲役8か月、園長の息子は強制猥褻で4年の実刑判決を受けた。
なお、民事訴訟について第1審の千葉地裁は2007年12月20日、一部の元園児については、親が引き取ったことからそのときから時効が進行するとして損害賠償請求を認めなかったが、虐待行為が不法行為に該当することを認め、10万円~80万円の支払を本来的には児童養護施設を設置することが県の事務であることから千葉県に対し命じた。なお、園及び園長に対する賠償責任は国家賠償法の適用を受けるとされたため認められなかった。
この事件はわたしの半生とは関連性は薄いですが、風化させたくない事件ですので、ここにひっそりと記録しておきます。
記憶に残るできごと
色々あったはずなんですが、思い出そうとしてもなんだか記憶が曖昧です。
毎日が事件のような日常だったからか…
そんな中でも、一つだけ書いておきたいと思います。
園での父親との関係
前稿(半生記その⑤)に書くべきでしたが失念していたことに、「面会」と「帰省」の制度がありました。
「面会」とは、上に書いたように、月に1回ほど保護者が子どもと会って外出することです。
子どもたちの、親と一緒に暮らせない理由はそれこそ人それぞれで、中には、経済的にあまり困窮していない家庭の子もいたようで、そういう子は、頻繁な面会とたくさんのお小遣い(それでも一般家庭に比べたら少ないでしょうが、園では羨望を受ける対象でした)をもらっていました。
また、一切身寄りのない子というのもいて、そういう子には当然面会はありません。
可哀想。
「帰省」とは、夏休みと冬休みの連休時に、一時帰宅ができる制度です。
2/3くらいの児童は帰省します。
帰省期間中は園がとても静かになるため、帰省できない子はとても惨め。
わたしたち兄弟はというと、面会、帰省ともに当初はありました。
父には幼少時にかなりの虐待を受けていたので、最初は父親が会いに来るのが嫌だったんですけどねぇ。
出かけて何か買ってもらったり、外食ができたりすることが続くと、小さい頃の恨みよりもその嬉しさが勝って、段々と面会が楽しみになっていきます。
帰省も、汚くて臭い家に帰るわけですが、施設から解放される喜びに比べたらそんな不潔さや臭さなど大した問題ではなく、たまの帰省を満喫するようになりました。
そんなある時、私が小学5年か6年の時の帰省期間。
帰省のスケジュールは、親が事前に園に連絡をするわけですが、父が迎えに来る予定の日が来ても父が来ません。
次の日も、また次の日も父は来ない。
結局4、5日経ってからふらりと現れたんですがすこぶる機嫌が悪い。
園に入ってくるや、「さっさと出てこいや!!」と怒鳴る。
子ども心に、(こりゃギャンブルで相当スってきたな…)と直感しました。
父が、良くギャンブルのために泊まり込みで遠征にいくのを知っていましたので(参考)。
園の玄関は事務所になっており当時の次長さんが出てきて、「何日も連絡なしに遅れてきて、なんだその態度は!子どもたちに謝れ!」と一喝したところ、父は「うるせえ!こんなとこ2度と来るか!」などとわかりやすい捨て台詞を吐いて出ていきました。
奴はそれから本当に一度も施設に来ることはありませんでした笑
ということで、この後はわたしたち兄弟も、面会来ない、帰省しない組の仲間入りをすることとなりました笑
まとめ
イジメっ子たちの顔を一人ひとり思い出しながら、頑張って綴ってみました。
あいつら今頃どんな人生歩んでんのかなー。
不幸になってたらいいな。
私が園内のヒエラルキーの頂点に経つ頃には、ちょっとしたケンカや小競り合いはあったものの、上に書いたようなイジメはなくなっていました。
ちょうど同年代に性格の悪いやつもいなくて、下を見回してもそういうことは起こっていなそうでした。
イジメのスパイラルはわたしの代でいったん止められたと思うんですが、その後どうなったのかは全くわかりません。
子どもたちが笑顔で生活できていたらいいな。
さて次回は、園の生活でわたしの趣味となった音楽のことや、いよいよ施設の出所という大イベントについて書いてみたいと思います。