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虐げられた幼い兄弟と家庭の崩壊 〜ガイコツ半生記その③〜

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さて前回は、わたくしガイコツが保育園に入園、そして卒園し、小学校に上がるまで、それと、当時の兄のことを思い出しながら綴ってみました。

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今回は、小学校生活ひいては家庭が崩壊していった日々と、母とその愛人とのこと、そして逃避行が始まるまでのことを思い出しながら書いていきたいと思います。

 

 

 

小学校時代 小学一年と三年の兄弟の遊び

 

まだ親と同居している時点での小学校時代は、まともに学校に通っていた記憶がほとんどありません。

 

なにをしていたかというと、学校に行かずにザリガニを捕まえたり、ぱちんこ屋に行っては自転車を盗んで補導されたりしていたのです。

 

当時の休み(日曜日)の過ごし方に関わってくるのですが、当時(ガイコツ小1くらい)、母が家を空けることが多くなってきていて、日曜は父と過ごすことが多くなってきていました。

父はぱちんこ屋にしか行かないので、必然的に我々兄弟もぱちんこ屋に。

ぱちんこ屋では玉を拾って集め、チューリップが開いている台を見つけてはそこを狙う。上手く入ると玉が少し増える。それを元手にまた開いたチューリップを狙う。

そうして玉を増やしていき、ジュースなどを飲んで過ごしていました(当時のぱちんこ屋には、玉の自販機があった)。

そうして毎週ぱちんこ屋で過ごしているうちに、わたしたち兄弟は色んないたずらを思いつき実行していきました。

 

2つ上の兄はいじめられっ子でしたが、その分わたしには強く、そしてとんでもない悪ガキでした。

自転車泥棒や万引きを兄に仕込まれました。

小学校一年生と三年生の兄弟としては、現在の日本ではなかなか見ることのできないとんでもない悪ガキだったと思います。

警察署でカツ丼を食べさせてもらったことも何度もあります。

 

 

当時の鮮明な思い出1 家庭訪問

 

家庭訪問。1年の時なのかな。

年配の女性の先生でした。

 

先生が家に訪問したとき、丁度家では父と母が取っ組み合いの喧嘩の最中で、家庭訪問どころではありませんでした。

 

家の外で、わたしは先生にしがみついて泣きました。

「先生、ぼくの家、食べるものが無くて、ご飯に醤油入れて炊いて食べてるんだよ」

そう言って号泣しました。本当に悲しかったんだと思う。そして、それは実話だった。

その時、家の中はテレビなどの家財道具は質に入っていて何もなかった。

 

それに対して、優しい口調で先生の言った言葉が子ども心にショックで今でも忘れられないでいます。

 

先生はぼくを抱きしめ、「いいのよ、ガイコツくん、きみは勉強さえできていればいいの。」そう言われて、ぼくは打ちひしがれていつまでも泣きました。

わかってはいたものの、やっぱり誰も助けてはくれないんだよなと悟った。

 

今、40になって、当時の先生の言葉もなんとなくわかる気はする。勉強してえらくなればこのクソみたいな生活から抜け出せるんだよという激励の言葉だったんだろう。

ただ、小1の子どもには難しすぎた。小1の子どもにとっては、ただ突き放されたにすぎない言葉だったから。

その時まさに、おれには助けが必要だったのに。

 

 

父は気が小さく、強い者には弱く弱い者にはとことん厳しい人間でした(2018年2月時点で存命ですが、今でもそうなんでしょう)。

癇癪持ちで、すぐカッっとなって物にあたるタイプでした。

家の中は、ふすまは穴だらけ、ガラスはぶち割って新聞が貼られたりしていました(30年以上経った今でもそのまま)。

 

ギャンブルキチガイで、ぱちんこをはじめ競馬、競輪、競艇、オートレースとなんでもやりました。

わたしが産まれた当時、競馬のノミ屋で大失敗もしています。

 

自動車がないと生活に支障があり、自動車保有数のかなり高い土地で生活していながら免許も車も持ったことがなく、人生の全てをギャンブルに費してきた人間。

 

大人になったら殺してやろうと本気で思っていましたが、大人になるまでにその馬鹿らしさにちゃんと気づけてよかったと思っています。

 

あんな人間のためにこれ以上人生狂わせてどうするんだ。

 

 

当時の鮮明な思い出2 母とその愛人との秘密の家

 

家にあまり帰ってこなくなっていた母が、あるとき、原付におれと兄を乗せ、3人乗りで隣の市まで行きました。

とある貸家には、Tという男がいました。そいつが母の不倫の相手だった。

 

どうして母がそこにおれたちを連れて行ったのかわからない。気まぐれかな。

 

家からは遠く離れているし、小1と小3のガキを連れて行って何か問題が起こるとも思えなかったんでしょう。

 

しかし、その一度の移動で、わたしはその場所を記憶しました。

 

そしてわたしたち兄弟はその場所に行くようになってしまいます。 

 

いま改めてgoogle mapで調べてみましたが、距離にして10km、大人の足で徒歩2時間。

この長い距離を、わたしたちは歩いて往復するようになっていました。

 

母が帰らない夜など、寂しくて私たちはここに来るようになってしまいました。

 

学校はもうほとんど行かなくなっていました。

 

母の愛人Tは冷たい男で、わたしたち悪ガキ兄弟は良くそこから閉めだされ(夜です。小1と小3です。)、向かいにある建築中の家の床下(要するに土の上)や、近くに捨ててあった車の中などで寝たりしました。

 

ちなみに母も父と同様ぱちんこ好きでヘビースモーカー、ぱちんこ屋にしか連れていってもらった記憶がありません。

 

この仮住まいの近くのぱちんこ屋にも、よく悪さをしに行きました。

 

また、その近所にあるいちごのビニールハウスに忍び込んでいちごを取って食べていた記憶があります。

 

 

当時の鮮明な思い出3 ある夏休み

 

消去法で1年か2年の夏休み(3年のときはもう施設に入っていた)、どちらか覚えていないのですが、母も父も10日以上家を空けたことがありました。

 

母は愛人といたんでしょうか。父はギャンブル(父はよく泊まりでギャンブルに行っていました。足が無いのでフットワークが鈍く、一つ賭事が終わったら次の賭事に直接移動していたんだと想像しています)で、わたしたち兄弟は飢えて、近所の家々に食べ物を恵んでもらいにまわりました。

 

丁度夏祭りがあったりして、そこに行ってスイカを分けてもらったりしてなんとか凌いだ、そのスイカをいただいた薄暗い夜の公園の風景が今でも脳裏に焼き付いています。

 

父の姉(Sという叔母)も1食くらい弁当を買ってくれた記憶があります(今思うと兄が助けを求めたのか)が、父は一族から勘当されているような立場で、基本的にほとんど助けはなかったのです。

 

平成30年の今なら秒で児相に通告されているレベルのひどい虐待とネグレクト家庭でしたが、当時は不思議なくらい誰からも手が差し伸べられませんでした。

 

おれたちを見殺しにした奴ら全員苦しんで死ね。

 

 

当時の鮮明な思い出4 脱走

 

そんなこんなでわたしたち兄弟が母の仮住まいに行くようになってしまったことが原因で、母の不倫がついに父にバレます。

 

ある日、意を決した母が父に三行半(離婚の交渉)を突きつけるのですが、父は断固拒否。

 

シチュエーションを良く覚えていないのですが、母と3人でタクシーで逃げます。

父は無免で原付をノーヘルで乗って追いかけてくる。

母は泣きながらタクシーの運転手に「逃げてください」と懇願している。

運転手は、「バイクからは逃げられないですよ」と困り果てながらも逃げていく。私達は怖くて泣いている。

そんな場面を覚えています。

 

前後の経緯などは全く覚えていませんが…。

 

 

こうして、当時の生活を捨てて、わたしたちは逃亡生活に突入することになりました。

 

今回も書いていて涙が止まらない場面がありました。

 

しかし、自分のためにも書き続けます。

 

次回は、逃亡生活から母に捨てられ、施設に入るところまでを書いていきたいと思います。 

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